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Imagine(Hippies must die?)
ぼくは2001年の9月24日以来、トップページに「TERRORISM, REVENGE, WAR... I HATE THEM ALL」と記したバナーを置いて、アメリカ合衆国(及びそれに追随する各国)によるアフガン武力攻撃に反対する意思を表明してきた。いわば「ひとり反戦バナー」とでもいうべき企画で、超友達のmojoさんがバナーを貼ってくれた以外は誰もこの企画には乗ってこなかったのだが、そもそもぼく側に「ムーヴメント」として働きかけようという意志がなかった、あくまで「mine-D個人」として意志を表明したかっただけ、という性格があったので、それは別段どうという事はない。あくまで「一人」運動をしたかったのだ。
その後、かつての湾岸戦争がそうであったように、アフガン空爆問題も、これというセンセーショナルなニュースを欠いたまま、知らない間にトーンダウンしていくという様相を呈している。主要容疑者とされるビン・ラディン氏はいつまでたってもつかまらないし、アル・カイダ一派が一掃されたというニュースも聞かない。もちろん、世界中には数々の紛争があり、特にアメリカ対アラブの対立構造が違う形で具現化したような、いわゆる中東情勢…パレスチナ対イスラエル間の緊迫した情勢は、イスラエル・シャロン首相の強硬な姿勢、対して、相変わらず繰り返されるパレスティナ人の自爆テロ…などの影響もあって、2002年5月中旬現在和平への道はほぼ閉ざされてしまった状態と言っていい。根本的な問題は、ますます悪い方向に進んでいこうとしているように思える。
だがまあ、少なくともアフガン情勢について言えばあれを書いた9月24日のそれとは、かなり情勢が違ってきているし、あのバナーを貼り続ける事にかなり違和感も感じてきたので、この文章をアップするのに併せて、「TERRORISM, REVENGE, WAR... I HATE THEM ALL」のバナーは外すこととする。一応全文をここに再録しておく。
NO WAR
テロリズムによって、何千人もの罪のない人達を殺す事…それは卑劣な行為です。それは許されざる事です。一瞬にして愛する人を失った深い悲しみ、持っていきようのない気持ち…想像する事しかできませんが、遺族の方々には深い同情の念を抱きます。また、単なる事故などではなく、圧倒的な暴力、明白な悪意に満ちた行為で尊い命が失われた事が、さらに遺族の方々の悲しみ、憤りを増しているように感じられます。あのニュースを見たすべての人達と同じように、ぼくも今回の事件について、ショックを受け、深く悲しんでいます。
アメリカ合衆国は今回のテロ事件に対して、「報復措置」を行うと明言しています。首謀者とみなされる人物及び組織のみならず、それらを擁護しようとするすべての国に対して武力攻撃を行うという意志を表明しています。また、日本を含めた多くの国がアメリカのこうした姿勢を支持し、支援する事を決めています。しかし、ぼくは現在世界に蔓延しているこうした風潮に対して、強い懸念を抱いています。「報復措置」は、要するに「仕返し」「復讐」に過ぎません。今世界中の人々が、あの事件に対する憤り、怒りで興奮し、熱狂の中にいるように感じます。そうした状況下で物事を決定するのは危険過ぎる…そう思うのです。
仕返しとは、結局のところ仕返しで報われる性質のものでしかありません。そうした終わりのない応酬を経て、世界がたどりつく先には何が待っているのでしょう。ぼくにはそれが「破滅」だとしか思えません。もちろん、「強い国」アメリカとして、こうした事態に対し、強権的な姿勢であたらざるを得ないという事情も理解できます。このまま沈黙していればテロリズムに屈したという事になってしまうのかもしれません。
しかし、それでもあえて、ぼくは武力による報復措置に反対したいのです。もちろん、これは現実的な主張ではありません。「では、どうすればいいのか」という問いに対して、ぼくは明確な答えを持っていません。だけど、ぼくらは知っているはずです。憎しみはさらなる憎しみを呼び、果てしない連鎖反応によって増幅されていく事を。この憎悪のシステムによって、人類が長い間争いを繰り返してきた事、そしてそれは今も続いているのだという事を。憎しみの鎖を、どこかで断ち切らねばなりません。それは口で言うほど簡単な事ではありません。だけど、そうしなければ、同じ人類同士が殺し合うという愚行は、このまま永遠に繰り返されていく事だろうと思います。戦争に正義も悪もありません。それは無益な殺し合いに他ならないのです。
ぼくのこうした考えは、「理想主義に過ぎない」「単なる夢想だ」と非難されるかもしれません。しかし、こんな風に考えてるのはぼく一人ではありません。ぼくはテロリズムを憎みますが、復讐も戦争もイヤです。mine-Dは、アメリカ合衆国の武力による報復攻撃、及びそれを後押ししようとする、あらゆる意志に反対します。
2001年9月24日 mine-D
さて、最近リンクを張らせてもらった「活きの良いヒゲあります」(その後「時計仕掛けのグランジ」)のしまけんさんが「カート・コバーンの子供たちへ- オルタナティヴ直撃世代のビートルズ&90年代ロック論 -」というタイトルで文章を書いておられる。これは非常に興味深かった(mine-D後記:当該テクストは、「クロス・レビュウ」に収録されている)。ポイントは「90年代ロックの落とし子」というキーワードだ。この文章を書いたしまけんさんは1977年生まれ。ぼくは1965年生まれで、1991年当時ぼくは26歳で、しまけん氏は14歳だった。この91年というのは実に象徴的な年で、ぼくは「アメリカが13年遅れてパンクを理解した」年だと考えている。しまけん氏は件の文章で「既存のロックを内側から批判すること/ロックという大きな物語を崩壊させること」という言い方をしておられるが、これはまさに昔ジョン・ライドン(ジョニー・ロットン)がイギリスにおいてやったことと相違ない。「現象としての」ニルヴァーナは「アメリカ人が初めて表現できた、自分たちなりのパンク」なのだと、ぼくは理解している。
そうしたアメリカン・ロックにおける大きな変化を、26歳で経験するのと、14歳で経験することの意味は大きく違うだろう。もちろん、ぼくとてイージーな「世代論」をもってこの違いに説明がつくとは思っていない。が、多感な十代にこうした洋楽ロックに興味を持ち、おそらくはスポンジが水を吸収するような勢いでそれを受容していく過程において「すでにニルヴァーナが出ていた」という状況の意味は大きかったろうと思う。ゆえに、「90年代ロックの落とし子」というキーワードはぼくにとっては新鮮だったし、しまけん氏がそうした立場から過去の「大きな物語」であるビートルズ=ジョン・レノン…「Imagine」の思想、あるいは「LOVE & PEACE」…に対して、はっきり「その物語は、すでに死んでいる」と言い渡す事の意味は納得できた。いやむしろそう「すべき」だと思った。
しかし「おれ自身はどうなんだ」と考えてみたとき、己の中途半端な在りようにとまどいを覚える。上に挙げた文章中で、ぼくはあからさまにジョン・レノン「Imagine」の歌詞に「乗っかって」いるし、実際あの時期ほど「Imagine」の思想が重要性を持つ時はないと感じたからこそ、ああした文章を書いたワケだ。が、ぼくはリアルタイムでジョン・レノンの活動に接して思い入れを感じていたワケではない。ジョン・レノンが殺された時、ぼくは15歳だった。ではぼくは「どちら側」の立場に立とうとしているのだろうか。そもそも、なぜぼくは「Imagine」の思想に惹かれたのだろうか。
いわゆる「LOVE & PEACE」といった考え方や平和主義、あるいは「ヒッピイズム」といっていいのか…そうした思想に同調する思いは、正直言ってある。忌野清志郎が「Covers」というアルバムで「Imagine」に日本語訳をつけて歌った事や、佐野元春が9月11日の事件直後に「The Light」という曲を作ってネットで配布した事、またRHCPが「The Righteous & The Wicked」で歌った内容…こうしたロックミュージシャンによる意思表明には、素直に感動してしまう。それは認める。ただし、こうした「幼稚な」考え方はある意味脆弱であり、現実主義的な立場からは攻撃される性質を、もともと備えている。友達のSilverboyはアメリカによる空爆を肯定するコラムを書き、掲示板やメールで議論したりした。しまけん氏の意見も、歳のいったぼくなんかより、はるかに「大人」のそれだと言えるかもしれない。「LOVE & PEACE」思想には、常に「子供っぽさ」という付録が付いて回るのだ。「大人の論理」を受け入れたくない「駄々っ子」のわがままだとも言える。それでも、ぼくは固執したい。子供っぽい自分に固執したい。そういう思いがある。
そうした思いの奥底には、ジョン・レノンという男への個人的な思い入れがある事は間違いないだろう。言うまでもないがヤツは昔から「LOVE&PEACE」を標榜していたワケではない。一例として、ビートルズ時代にヤツが書いた曲「Yer Blues」の歌詞を見てほしい。「Yes, I'm lonely. wanna die. Yes, I'm lonely. wanna die」…。「LOVE&PEACE」もへったくれもない。これはもはやパンクだ。こんなストーリーを読んだことがある。大昔「宝島」誌に女性ライターが書いていた話だったのだが、彼女の名前、何年の何月号に載った記事だったか…等は忘れてしまった。申し訳ない。だけど、話の大筋はあっていると思うので勘弁願いたい。曰く、ロンドンパンクが台頭してきた時、あるインタヴュアがジョン・レノンにこんな風に尋ねた。「ロンドンにおいて『パンク』というムーヴメントが興っているが、それについてどう思うか」と。ジョン・レノン答えて曰く「ぼくは昔からパンクだった」。後日そのインタヴュアが当のジョニー・ロットン(すでにジョン・ライドンだったのか)をつかまえてこの話を聞かせたところ、このオリジナルパンク野郎はこう言ったという。「…ああ。確かにヤツは、昔はパンクだったかもしれないぜ。だけど、今のヤツはどうなんだ?」と。
間違いなく、昔のジョン・レノンはパンクだったのだ。ロックミュージシャンが平和運動に関わる事の「カッコ悪さ」、あるいは「偽善性」を、いちばん認識していたのは他ならぬジョン・レノンその人だったと思う(「Revolution」の歌詞を見よ)。彼はファースト・ソロ・アルバムに収録されている「God」という曲で、聖書やタロット、キリスト、仏陀、ヨーガ、あるいはかつて自分が敬愛していたエルヴィス・プレスリーやボブ・ディランの名を連ね、それらのものすべてについて「ぼくは信じない」と言い切っている。最後には「ぼくはビートルズも信じない。ただぼく自身を信じる…ぼくとヨーコを。これが悟りだ」と述べている。ここに見てとれるのは、すべての概念を否定し尽くした後、最終的にそこに残った「自分自身」という存在(=One)、及び限りなく身近な「ライフサイズの」愛のみを自らの拠り所とする表現者ジョン・レノンとしてのアティテュードであり、こういうところにこそ、ぼくは強く惹かれてしまうのだ。
一方「Imagine」で歌われているのは国境や人種や宗教といった区別がすべて消え去った末の理想郷、すべての人がひとつ(=One)になれる世界で、「God」の思想との間には大きな溝が横たわっている。「Imagine」が収録されているのはセカンド・ソロアルバムであり、「God」と「Imagine」の間にどんな心的変化がヤツにあったのかは分からない。オノ・ヨーコに言いくるめられたのかもしれないし、平和運動家達に「利用」されたのかもしれない。あるいはその辺りの拘りなどまったくなく、単に気分で作っただけの曲だったのかもしれない。それはいい。ただ、「Imagine」をはじめ「Give Peace A Chance」「Power To The People」「Happy Christmas(War Is Over)」といった曲においては、あからさまに平和運動、市民運動的な傾向が見られ、とかくその面だけが強調されがちだが(ジョン・レノンという名前に、必ずといっていいほど「愛と平和の」という言葉がくっついてくる)、平和運動に入れあげていた時期は、ヤツのキャリアの中でそれほど長いとは言えないのだ、実際のところ。ただ、ある時期確実にヤツの頭の中が「LOVE&PEACE」でいっぱいになっていた事は事実だ。
ここでもう一度、ぼく自身の態度について考えてみたい。今挙げたような平和運動、市民運動とぼくのスタンスの違いは…。確実に言える事は、反戦バナーを貼り付ける事を通じて、ぼくは特に誰とも「共闘」したくなかった、少なくともそれを誰かに勧めたりはしたくなかったという事だ。後々ネットを調べて回って、実際にアメリカのアフガン武力攻撃に反対する運動を展開しているサイトも見つけたし、そうしたサイトでは本当に「反戦バナー」を作って各自のサイトに貼り付ける事を勧めていた。だけど、ぼくはこうした「数によるムーヴメント」には何の興味も湧かないし、むしろ嫌悪感をさえ覚える。限りなく個人主義なのだ、ぼくの立場は。それはおそらく、ぼくが人間とは本来的に孤独な存在で、どこまでいってもひとり(=One)でしかあり得ない事を、身を以て知ったからだろう。もてあました孤独感を曖昧な理想で埋め合わせる事だけは、絶対にしたくない。それなら己の孤独とどこまでも対峙する方を選ぶ。そういう意味から、「一人反戦バナー」という行為は、結果的にぼく自身の意思表明として、然るべき方法で然るべく表現された…そう理解している。
だが、それではさきほど「LOVE & PEACE」や平和主義に思い入れを感じると述べたことと矛盾するではないか…。そう言われると、自分でも正直説明がつかない。あるいは個人の意識の変革によって社会全体を変革していくという思想がある事も承知している。だが、人々が言うように、「自分が変われば世界も変わる」のかどうか…ぼく自身は、はなはだ心許ない。自分がどう変わろうと、世界はそのままで醜いようにも思う。ただ、自分の中に先ほど述べたような理想主義的な「子供っぽさ」があるのは事実だし、それ自体は大事にしたいと、思っているのだ。
どこまでも孤独な存在である、ぼく自身。その心の在りようとして、ベクトルが内側に内側に収束されていく、という面があるのは事実だ。しかし、なにかその内向きのベクトルが最大限まで達した時、一気に外側に放射されるような…まるで「クラインの壺」のように、内側が外側で、外側が内側になるような状態が現実化しないものか…。そんなイメージを漠然と考えてもいる。はなはだ観念的で、申し訳ないのだが。
いずれにせよ、また何か社会的/政治的な問題に関して意思表明したくなった時は、コラムに書いたり、バナーを作ったりしてどんどん関わっていきたいと思っている、あくまで「個人的」なやり方で。それが間違っていようが正しかろうが、自分の意志をきっちり表明できる自分だけのメディアを持っている、という今の状況に、ぼくはかなり満足している。今までの人生では、感じたことはすべて心の中に埋もれていくだけだったのだから。それからもうひとつ感じた事は、今回ジョン・レノンの思想、平和運動といった事柄を考えてみた事によって、「ロックと政治/社会問題」との関わり方について、あらためて考えさせられた。いつになるかは分からないが、前述のしまけん氏と、そういった事柄について議論してみても面白いのではないか。そう思った。
個別リンク:http://www.mine-d.com/article/archives/2004/06/imaginehippies.html|↑