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寒波・初対面・焼きおにぎり−アルさん、bunbunさんに会った話−
いつもネットで仲良くさせてもらっているアルさん、bun姐ことbunbunさん(「lovin' spoonful」)が、At The Drive-In(ATDI)を追っかけてはるばる大阪まで来られるということなので「これは会わないともったない」ということで、会いに行ってきた。以下はその時の話。「内輪の話を書いてんじゃねーよ」という声も聞こえてきそうだが、まあそう言わずに。ATDIのメンバーも出てくるので。
ライヴは2001年1月14日、会場は「ベイサイド・ジェニー」というハコ。水族館やショッピングモールなどが建ち並ぶプレイスポット「天保山」、そこの最近の名物である大観覧車の真下にライヴハウスはある。といっても、実はぼくはライヴを見ていない。3日前にリンプ・ビズキットのライヴに行ったばかりで、小遣いの少ない貧乏サラリーマンとしては、続けて行くのはどうしてもムリがあったのだ。しかしATDIを見ずにリンプを見に行ってしまうぼくは、もはや「汚れロックファン」なのか。
「ライヴは9時くらいに終わるだろう」という話だったが、かなり早く8時過ぎには着いてしまった。どうやって時間つぶそうかなどと考えつつとりあえず会場前に行ってみると、なにやら「いい汗かいた」という表情のお客さんがぞろぞろ出てくる。聞いてみるとすでにライヴは終了したという。さっそくアルさんの携帯に電話を入れたが留守電になっていたので、とりあえずメッセージだけ残して近くのコンビニへ。しばらくするとアルさんから電話が入り、お二人が滞在している近くのホテルで落ち合うことに。bunbunさんやアルさんのいでたちについては事前に色々聞いていたのだが、ほぼ想像通りといったところ。いずれにせよ初対面はすごく照れくさい。3人で顔を見合わせて照れ笑いしてしまった。
この日の大阪(だけではないのだが)は、寒波が襲来したせいで前日までとはうって変わってものすごい寒さ。テレビで「この冬一番!」を連発していた。びゅうびゅう風が吹きすさぶ中を、お二人と一緒に少し先の居酒屋まで歩く。店で聞いてみると奥のテーブル席は予約で埋まっており、カウンターしかあいてないという。「どうしようか…」と話しているうちに、アルさんのいでたちを見た店のおちゃんが「お、ライヴの帰り?後で来るで、えーと、ドライブ…なんやったかな」と宣った。なんと、その店でメンバーが打ち上げをするらしいのだ。それはもう、カウンターでもなんでもけっこうです!という感じで飲み始める。「どんなバンドなん?」とロックに理解を示すおっちゃんの問いに「うーん、どう言えばいいのか…」。
お二人は人見知りする方だと聞いていて、ぼく自身もまさに人見知り大王なので、どんな飲み会になるんだろうと心配していたのだが、ものすごく楽しかった。お二人とも、押しの強いタイプとは正反対の(押しの強い人、キライです)、控えめで物静かな印象なのだが、ご自分の意見はしっかり言う。こちらの言うことは真剣に聞いてくれるし、すごくリラックスした中で実のある話がいっぱいできた。ネットで知り合った人と会ったことは、今回を含めて数回あるのだが、いずれもいい感じの出会いばかりだった。なんというか、密度が濃い話ができる。サイトを通じて、自分のことはかなり恥ずかしい所までさらけ出している感じだし、相手の考え方、人となりも自分の中で「〜さん像」というのができあがっている。で、実際に会ってみるとまさにその通りというか、納得してしまえるのだ。いや、今回お会いしたお二人とも文章ではすごく饒舌で、実際のお人柄とは違うといえば違うのだが、話してみると「ああ、納得」となってしまうのだ。
しばらくすると、ATDIのメンバーがスタッフと共に来店。ぼくはライヴを見てもいないのに「ヘーイ!グッド・ショウ」などと言って握手してもらった。いいかげんなヤツ。実はお二人が宿泊されているホテルにメンバーも泊まっており、すでに昼間少し話しをされたとのこと。おまけにメンバーと一緒に会場入りまでされたそうだ。偶然入った居酒屋でも会うし、こうなるともう、ATDIとお二人が見えない糸で結ばれているとしか思えない。
今回の来日ではライヴ前にアナウンスがあり、ダイヴ、モッシュはいっさい禁止されていたらしい。ぼくは以前「危険行為」というコラムにも書いたとおり、自然発生的なものである限りダイヴ、モッシュは全然OKという態度だ。しかし、バンド側のそうした姿勢も理解できなくはない。特にアメリカにおいて顕著だと思うのだが、この手の激しい音を出すバンドのライヴ会場は、もはや末期的といってもいい状況なのだ。ただ騒ぐために来ている客。音楽を聴いていない。RHCPのライヴで、「Californication」をやっている最中にダイヴする客…。ATDIは、こうした状況にほとほとうんざりしているのだろう。バンド側が客に何かを強制することには抵抗を感じるが、現状に対するカウンター、異議申し立てとして、「禁止」といった措置を取ることも意味のあることなのかもしれない。ただ、11月に見たフィッシュボーンのライヴを思うと、健全な「ダイヴ道、モッシュ道」(なんだよ、それ)が確立される希望は残っているような気もする。この辺の所をATDIのメンバーと話し合ってみたい気もした。「奥で飲んでるんだし、呼んでこようか」などと冗談を言ってたのだが。
酒豪アルさんと同じペースで飲んでいたら、すっかり酔っぱらってしまって、お二人に心配されてしまった。いつのまにか終電も出ていたようなので、タクシーで帰ることにした。今回は本当に楽しかった。お二人にはこの場を借りて改めてお礼が言いたい。ありがとうございました。機会があれば、またぜひ会いましょう。
バリバリのベジタリアンもいるらしいATDI、居酒屋でいったいどんなメニューを食うのだろうと思っていたら、おにぎりが大量に焼かれていた。「たぶんアレだね」などと話していたのだが、網の上でしょうゆを塗られて焼かれる、たくさんのおにぎりのイメージがなぜかこの日の印象として強烈に残ってしまった。
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カート・コベインを間近で見た話
英会話学校に通っていた時期があった。バリバリにロックに傾倒していた時期と重なっていたので、会話のとっかかりとしてRHCPの話なんかを振ってネイティヴの先生達とロックの話で盛り上がることも多かった。そんな先生達の内の一人にジョンというアリゾナ出身の男がいて、ぼくも彼も偶然マッド・ハニーのライヴに行っていたことが分かり、けっこううち解けて色んな話をした。
彼は60年代のガレージ・ロックというのか、聞いたこともないようなマイナーなバンドのマニアックなファンで、その流れとしてサブ・ポップレーベルの音なんかも聴くという話だった。ちょうどニルヴァーナが来日するということだったので、一緒に行こう、という話になった。
確か92年のバレンタイン・デーだったと思うが、大阪の会場は「国際交流センター」という、あまりロックのコンサートには使われないような所だった。恥ずかしいが方向音痴で、地元の交通経路にも詳しくないぼくは、度々迷いそうになりながら彼を国際交流センターまで連れていった。しかし、着いてみて分かったことだが、ジョンは外国人としてしょっちゅうこの施設に出入りしていたらしく、「ここならおれが案内できた」と言っていた。
会場へ向かう道すがら、「少年ナイフ」の話なんかをしていた。ぼくはいまだにこのバンドのどこがいいのか全然分からないが、欧米のリスナーはもちろん、ニルヴァーナやソニック・ユースなどアーティスト達までが高く評価している日本のガールズ・バンドで、ジョン自身も彼女らのことをべた褒めしていた。
ライヴが始まり、途中のMCでバンドは「今日は少年ナイフが『ア・ムホール』というところでショーをやってる。みんな行くべきだ」とコメントしていた。ライヴ終了後、情報誌でチェックしてみると、なにかのイヴェントで(おにぎりの販促イヴェントだったと記憶しているが、変か?)、招待券を持っていないと入れないみたいだったし、時間的にもライヴは終わってそうな感じだった。「たぶんムリだろう」とジョンに言ったが、ジョンは積極的で、「とにかく行ってみよう」ということになった。
さて、国際交流センターからア・ムホールのあるお初天神まで行く最短の交通経路は、「谷町九丁目」まで歩き、そこから地下鉄谷町線で「東梅田」まで行く方法だ。もちろんぼくは知らなかったが(…)、この辺りに詳しいジョンに連れられて意外に早く会場に着くことができた。ライヴはちょうどアンコールの最後の数曲をやっている時で、終わりかけだったためか招待券もなしで入れた。
ぼくらが着いてしばらくすると、あきらかに怪しげな雰囲気の外国人数人が会場に姿を見せた。そう、なんとニルヴァーナのメンバーが顔を出しにきたのだ。ベースの人(名前知らないのです、すいません)は異様なくらい背が高く、それとは対照的にカート・コベインはかなり背が低いと感じた。おそらくバンドメンバーもライヴ終了後車ですぐに駆けつけたのだろうが、ぼくらの方が少し早かったのだ。ぼくらのいる客席後方に近づいてきたので、ほんとに間近にカートがいるという状況だった。
ぼくは尻込みして声をかけずじまいだったが、ジョンはカートに向かって「Hey, Good Show!」と声をかけた。カートはこちらを振り向いたが、その反応に少し驚いた。なにか眼の焦点があっておらず、ジョンの言ってることもよく理解できていない感じだったのだ。彼とぼくらの間には見えない壁のようなものがあって、こちらの声が届かない、そんな印象だった。けっきょく彼はなんの言葉も発しないまま、ライヴ終了後楽屋へ移動していった。
その後のことを考えると、この時のカートの様子が、なんともいえない印象を持って思い出される。爆発的に売れてしまい、自分たちが「ロック・スター」として扱われることからくる「歪み」をもろに受けとめてしまい、異様なテンションのもとにあったんだろうか、などと勝手に考えてみる。
その後ジョンはアリゾナに帰り、ぼくもしばらくして英会話学校はやめてしまった。彼とはその後なんどか手紙のやりとりをしていたが、ここ何年かはまったく音信不通の状態だ。どうしているんだろう。元気なのかな。
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