「群盲象を撫でる」という言葉がありますよね。
王は「象とはどういうものだ」と聞いた。足を触った者は「大王様、象とは立派な柱のようなものです」と答えた、尾を持った者は箒のよう、尾の根本を持った者は杖のよう、腹を触った者は太鼓のよう、脇腹を触った者は壁のよう、背を触った者は背の高い机のよう、耳を触った者は団扇のよう、頭を触った者は何か大きなかたまり、牙を触った者は何か角のようなもの、鼻を触った者は「大王様、象とは太い綱のようなものです」と答えた。そして、王の前で「大王様、象とは私が言っているものです」と再び言い争いを始めた。鏡面王は大いにこれを笑って言った、「盲人達よ、お前達は、まだありがたい仏様の教えに接していない者のように、理解の幅が狭いのだね」。
私ね、ずっとこの、「鏡面王になれない自分」という事で悩んでいたように思うんです。心の中に理想化された完全な自分像を作り上げて、それと現実の自分を比べては「おれなんてまだまだダメだ」「もっと勉強すれば完全な知識を得られるかもしれない。いつかはきっと」みたいな感じで、常に理想的な自分と現実の自分とのギャップに悩んでいて、卑下するのがデフォだったんです。でもって、なぜか分からないけど理想的な自分を持ち上げて、現実の自分をけなす事がカッコいいみたいな意識もあったりして、とにかくネガティヴだった訳ですよ。
そういう人ってけっこういるんじゃないかと思うんです。ブログなんかでも「勉強不足で…」みたいな言い方をされる人がけっこういらっしゃると思うんですが、あれって「本来ならしっかり勉強して理解している自分がいるはずなんですが、そこまで行けてなくて」という意味でしょう?戦略的な謙遜ではなくて。ですから私だけという訳でもないと思うんですね、この「理想的自分」問題は(程度の差はあると思いますが)。
池田信夫氏が書かれた「ハイエク 知識社会の自由主義」って本を読んでハイエクの「市場は完全情報の合理的主体が無限の未来までの価格をもとに計算を行うものではなく、部分的な情報しかもっていない人間が価格を媒介にして外部の情報を取り入れ、無知を修正して進化するメカニズムである」という考えに触れた時、すごく気持ち的に楽になれたんですね。「ああ、別に悩む必要なかったんだ。無理して『完全情報の合理的主体』になろうとしていたやり方が間違ってたんだ」と。
冒頭の例は鏡面王が、象の部分部分しか認識できていない盲人を嗤うという図式ですが、現実世界では誰も「象」全体を見渡せている訳じゃない。つまるところ、みんながみんな、このエピソードの盲人達のように手探りで身の回りの状況だけを把握して、限られた情報だけで判断を下していかなければいけない。リスクはあるけれど、そうやって世界全体が成り立っている。
そう気づいて以来、鏡面王的完全主義を持ち出して「理想の姿と比べるとお前などまだまだだ」とか「ここが完全でない点でお前はダメだ」という言い方をする人に対しては「ああ、この人は鏡面王幻想に取り憑かれているんだ」としか思わなくなりました。そういう観点で見ると鏡面王幻想に染まっている人はけっこう多いですよね。
「現実世界においては、『答え』など存在しない。『常に修正を繰り返す仮説』があるだけだ」という意味のことをロバート・キヨサキが言っていましたが、この感覚がいちばん近いんじゃないかと思います。鏡面王なんていないんです。象は誰も見たことがないんです。
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