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フェアトレードというものがあると新聞で読んで知りましたが、なにかこういう流れって似たような何かが根底にあるような気がします。

例えば全然関係ないような「敷金礼金」の問題。私が一人暮らしをしていた20年くらい昔なら、敷金や礼金という制度はあたりまえのようにしたがっていましたよねー。「なんでこの憎たらしい大家に、戻ってこない金をくれてやんなきゃなんねんだろ」と疑問を持ちつつも、声を上げて反対するような社会的な動きはなかった。でも、今って敷礼ゼロが普通になってきてるんですね。判例も出たみたいで。いったんこういう流れになったらもう止められないですよね。「そもそも礼金って何のためのお金?外国には存在しない制度ですけど?」と言われて答えられないような慣習はつぶされる方向にある、と(まあ、すぐになくなりはしないでしょうけど)。なんかマリファナでパクられる一般人が増えてるってのも同じ問題のような気がするな。

この手の風潮を一言で言うと「グーグルの理念」じゃないかと思う訳ですよ。「悪事を働かなくてもお金は稼げる」というアレです。利益という、事業存続に必要な仕組みは維持しつつも、高度な「透明性」と「説明責任」を求められる、というのが最近の企業に求められる資質になってきていると、痛切に思います。これは後戻りできないトレンドで、今「利益を出すのが第一で、透明性だの説明責任だの、甘っちょろいこと言ってたら生き残れないんだよ!」といった考えを持っている人、企業(けっこういますけど)は、この先数年でめちゃくちゃ力を失うだろう、ということは断言しちゃいましょう。ええ、そうなります。

こないだiPhoneの青空文庫アプリで小林多喜二の「蟹工船」を読みましたが、ほんの60~70年前の話なのに、フィクションにしか思えないんですよ。だって病気になった船員を見せしめのために船のマストにロープで吊るす、みたいなシーンがあったでしょ、確か。「ここまではないって。作り話だろ」と思ってウィキペディアで調べたら、ほぼ事実を元にしているらしいじゃないですか。ありえねー資本家!それから考えたら、もう今の労働環境なんてパラダイスじゃないですか。そんな満たされた物質環境に安住しといてワープアだの就活反対デモだの左翼活動やっても、そら賛同者出ないっすよ。だって「労働者の待遇改善」ていうミッションクリアしちゃってますもん、すでに。

要はですね、マズローの欲求段階が一段上がってしまった状態だと思うんですよ。「食べていける」ってのは、すでに目的ではなくて必要条件でしかなくなっている。だから、企業や政府が物事を進めていく上で、これからは「人民が食べるためだから仕方ない」みたいな言い訳が、通用しなくなると思うんですよ。悪事をしないで利益を追求していきます、という意思表明のための透明性。それと「なぜそれをするのか、何のためにするのか、それをやると誰が幸せなのか」という説明責任の二つが、その個人なり企業が社会的に認められる条件として求められるようになると思います。ネットで横のつながりが形成されてきていることが関係しているのは、言うまでもありません。

透明性だの説明責任だの言うと、優等生的な一部の企業理念だと思われるかもしれませんが、おそらく、これにガチで取り組まない人や企業は淘汰されると思います。口先だけではすぐ見破られるし、メディア操作も、もうできませんよね。ガチです、ガチ。逆に言うと個人や小規模企業でも、この戦略を採れば生き残れる確率は高まると思うんですよね。

今起こっていることにどういう意味があるのかは、後から振り返ってみないと分からないのかもしれませんが、まぁ、かなーり怖いことではあるけど、楽しいことでもあるなぁ…という印象をもっております。

なんか最近クレームばかり書いていて今回も文句つけるので、まるでクレームブログみたいになってますが、そういうつもりはないんですからねっ。愛ある故に、なんですから。

先日、PiTaPa(関西版の、Suicaみたいなヤツ)に申し込んで利用し始めたんですよ。

PiTaPa – Wikipedia

で、まあカード自体は便利ですばらしいのですが、このPiTaPa、料金明細はネットで確認できるようにしている訳ですよ。で、もし紙の明細がほしいなら100円かかりますよ、と。これ自体は経費削減でいい考えです。しかしですね、こないだいきなり紙の明細が送られてきて、しっかりと発行料100円を計上しておられるんですよ。ちょっと待たんかーい!おれはそんなもん申込んだ覚えはないぞ。で、よく読んでみるとネット上から自分で手続きしない限り、自動的に紙発行になってしまう仕組みになってるんですわ。つまり、オプトインではなくてオプトアウトになってるんですね。

おいおいおい。賭けてもいいけど、これ80%以上の人は気付かずに初回は紙の請求書が送られてくるでしょう。下手すれば「ネットの手続きとか、操作難しいから」という理由で毎月100円を払い続ける人も少なからずいるでしょう。これはあんまり筋のよろしい話とは言い難いですな。月100円てのは、個人にとっては大した金額じゃないかもしれないけど、全体で見れば相当な金額でしょう。こういう、「人の後ろをついて回って、うっかり落とした小銭を拾い集める」ような真似をして(あまつさえそういう仕組を作って)恥ずかしくないのかな、と思いますね。ゲスい。あまりにゲスい。最初からオプトインにするのがまっとうな企業のすることじゃないでしょうかねぇ。

まあ、贔屓目に見れば、まだまだネットによるコスト削減意識が一般化したとは言えないので、「紙で来るのが当然だろう」という客も少なからずいるだろうし、そういう人が多い事を見越して紙がデフォルトにしているのかもしれないですけどね。ただ、今回の件でアタイが「騙された」に近い感情を抱いたことは事実だし、こういう事をする企業は、イマイチ信用できないな、と思ったのも事実ですわ。

諸兄は先刻ご承知の通りフラット化でグローバルな時代な訳ですが、やはりここで問題になってくるのは言葉の壁ですな。英語は細々と勉強しておる訳ですがなかなか上達せんし、まして他の言語となるともうさっぱりです。中国の方やフランスの方とネットでコミュニケートしたいと思ってもできない。これは逆も同じですよね。日本語とか超むずい。せっかくネットっていうインフラが整ったのに、mottainaiですよね。

そこで翻訳なんですが、マシンがやる自動翻訳がですね、どうもダメダメじゃないか、というのを申し上げたい訳ですよ。Googleも自動翻訳を手がけているようですが、もうね、何年やってんですか!もう何十年と開発してるのに、いつまでたっても実用レベルに達してこない。そりゃ特定の言語の組み合わせならうまくいくケースもあるんじゃないかと思いますよ?でも日本人として言わせてもらえれば、日韓の組み合わせを除いては一つとして「使える」レベルの技術がない。この先もないでしょう。だってこれだけ様々な技術が進歩してるのに、翻訳だけが何十年も足踏み状態じゃないすか。

やっぱりですね、翻訳みたいな複雑な作業は人間がやった方がうまくいくと思うんです。だから、Wikipedia式に集合知でガーッとやっちゃう仕組みを作った方がいいと思うんですよね。人間がやるなら、リアルタイム(同時通訳)レベルのところまでカバーできるんじゃないか、個人的にはそう思っています。Google Waveにしろ「英語がリアルタイムでフランス語に!」みたいな事ではしゃいでる暇があったら、今の日本語翻訳の現状をなんとかしましょうよ、という感じですから、ぜひとも「人の手」が介入できる余地を作っていただきたいところ。

問題は、肝腎の「人」をどうやってオーガナイズし、マネージしていくか、というところにあると思いますので、引き続き精進していきたいと思う所存であります。

先日、選挙が行われましたね。今さらかよって感じですが、選挙があるたびに「投票する」という行為に違和感を覚える自分がいて、昔、何度か文章を書いたりした記憶があるのですが、今読んでいる「ポスト資本主義社会」に興味深い記述があったので、書き留めておきます。

市民性のない国家
だが、「巨大国家においては、もはや政治的な市民性は機能しない。小国においてさえ、政府のすることは、遠くの出来事であって、一般の人間が影響を与えることはできない。
もちろん、投票することはできる。事実われわれは、過去数十年間にわたって、権利としての投票の重要性を苦労しながら学んできた。
個人はまた、税を納めることはできる。この点でもわれわれは、過去数十年間にわたって、納税が意義のある義務であることを学んできた。
ところが今日、個人は、投票と納税以外には、世の中に影響を与えることも、行動を起こすこともできない。
市民性のない国家は空疎である。もちろんナショナリズムは存在しうる。しかし、市民性のないナショナリズムは愛国心から排他主義へと堕す。
社会に市民性がなければ、市民を生み出すうえで必要とされる責任あるコミットメント、つまるところ国民を統合するための責任あるコミットメントなど、ありえようはずがない。世の中をよくすることから生ずる満足や誇りもまた、ありえようはずがない。

「むおお」と唸ってしまいました。「たとえ入れたい政党がなくても、投票はしろ」や「投票しないなら政治にいっさい文句言うな」といった乱暴な論調に感じる違和感を、実によく表している文章だと思います。

問題は、今の社会が複雑化し過ぎていて、市民性を喪失してしまっている点なのだと思うんですよ。現在の選挙制度ができた時はそうじゃなかった、人々が政治に参加しているのだという意識を持つことができたんでしょう。けれど、ドラッカー博士が「断絶の時代」でも述べているように社会は変質してしまっているのですから、形骸化した「投票=善」という考えを振り回しても仕方がないのだと思います。投票という行為から市民性がすっかり剥げ落ちてしまっている。

さてどうやって市民性を取り戻すのがいいでしょうねー。「政治意識を!」とか大上段に構えても、きっとプロ市民の罠にはまっちゃうし、かといって家にこもってネットしているだけではダメだろうし。確かなのは、今の政治制度や教育に文句を言ってるだけではなにも始まらない事だと思いますので、何か自分なりに有効だと思えるようなことを実行していきたいと思います。少なくとも投票してればいい、税金だけ納めときゃいいという考えには陥らないようにしよう。

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3 10年前に書かれたということが驚き

「群盲象を撫でる」という言葉がありますよね。

群盲象を評す – ウィクショナリー日本語版

王は「象とはどういうものだ」と聞いた。足を触った者は「大王様、象とは立派な柱のようなものです」と答えた、尾を持った者は箒のよう、尾の根本を持った者は杖のよう、腹を触った者は太鼓のよう、脇腹を触った者は壁のよう、背を触った者は背の高い机のよう、耳を触った者は団扇のよう、頭を触った者は何か大きなかたまり、牙を触った者は何か角のようなもの、鼻を触った者は「大王様、象とは太い綱のようなものです」と答えた。そして、王の前で「大王様、象とは私が言っているものです」と再び言い争いを始めた。鏡面王は大いにこれを笑って言った、「盲人達よ、お前達は、まだありがたい仏様の教えに接していない者のように、理解の幅が狭いのだね」。

私ね、ずっとこの、「鏡面王になれない自分」という事で悩んでいたように思うんです。心の中に理想化された完全な自分像を作り上げて、それと現実の自分を比べては「おれなんてまだまだダメだ」「もっと勉強すれば完全な知識を得られるかもしれない。いつかはきっと」みたいな感じで、常に理想的な自分と現実の自分とのギャップに悩んでいて、卑下するのがデフォだったんです。でもって、なぜか分からないけど理想的な自分を持ち上げて、現実の自分をけなす事がカッコいいみたいな意識もあったりして、とにかくネガティヴだった訳ですよ。

そういう人ってけっこういるんじゃないかと思うんです。ブログなんかでも「勉強不足で…」みたいな言い方をされる人がけっこういらっしゃると思うんですが、あれって「本来ならしっかり勉強して理解している自分がいるはずなんですが、そこまで行けてなくて」という意味でしょう?戦略的な謙遜ではなくて。ですから私だけという訳でもないと思うんですね、この「理想的自分」問題は(程度の差はあると思いますが)。

池田信夫氏が書かれた「ハイエク 知識社会の自由主義」って本を読んでハイエクの「市場は完全情報の合理的主体が無限の未来までの価格をもとに計算を行うものではなく、部分的な情報しかもっていない人間が価格を媒介にして外部の情報を取り入れ、無知を修正して進化するメカニズムである」という考えに触れた時、すごく気持ち的に楽になれたんですね。「ああ、別に悩む必要なかったんだ。無理して『完全情報の合理的主体』になろうとしていたやり方が間違ってたんだ」と。

冒頭の例は鏡面王が、象の部分部分しか認識できていない盲人を嗤うという図式ですが、現実世界では誰も「象」全体を見渡せている訳じゃない。つまるところ、みんながみんな、このエピソードの盲人達のように手探りで身の回りの状況だけを把握して、限られた情報だけで判断を下していかなければいけない。リスクはあるけれど、そうやって世界全体が成り立っている。

そう気づいて以来、鏡面王的完全主義を持ち出して「理想の姿と比べるとお前などまだまだだ」とか「ここが完全でない点でお前はダメだ」という言い方をする人に対しては「ああ、この人は鏡面王幻想に取り憑かれているんだ」としか思わなくなりました。そういう観点で見ると鏡面王幻想に染まっている人はけっこう多いですよね。

「現実世界においては、『答え』など存在しない。『常に修正を繰り返す仮説』があるだけだ」という意味のことをロバート・キヨサキが言っていましたが、この感覚がいちばん近いんじゃないかと思います。鏡面王なんていないんです。象は誰も見たことがないんです。

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サイトを運営し始めてから、もう9年くらいたちますが、長い間普通におつき合いさせてもらってるにもかかわらず、まだ一度もお会いした事がない人がけっこういらっしゃいます。そういう人とは基本的にテキストのみでコミュニケーションしているんだなぁと思うことが最近あって、その辺を考えてみたいと思うわけです。

テレコミュニケーションの形態を考えてみるに、テレビ電話システムとか、ヴァーチャルなアバターを利用したSecond Lifeなどというサービスも一時流行るかと言われもしたんですが、いずれも日常的に利用されるほど普及しているとは言い難い。やっぱり機器を買いそろえたり、高スペックのPC環境を揃えたりするの、めんどいじゃん、と。結果、私がサイトを運営し始めた時と変わらず、圧倒的多数のネット・コミュニケーションがテキストで行われているという状況がある訳ですね。

で、個人的には、このテキストベースのコミュニケーションが非常に心地よいと感じるんです。嫁なんかは、最近ブログを始めたみたいですが、「文章だけだときちんと思いが伝えられない、会って話すのがいちばんだ」という考えみたいです。けど私に関しては、会って話すのも悪くないけど、文章すなわちテキストでのコミュニケーション要素がないと、逆に不安に思うくらいに感じています。

なんというか、ある人物Aさんがいるとして、「会って話す印象」と「テキストから受ける印象」の両方が揃って初めて、その人のパーソナリティを理解できるんじゃないか、と感じることが多いんです。中年サラリーマンが絵文字連打とか、ゆるふわガールが絵文字いっさいなしの事務的文章とか、そういう意外性を感じるケースがけっこうあると思うんですが、テキストキャラとリアルキャラの乖離という現象は確実にあると見ていいでしょう。

そうなると、リアルで会って話すだけで、その人の個性を理解したと考えるのは、少し危険なことなのかもしれない。実際、私が誰かの文章…ブログやメールを読むときは、無意識にその人のテキスト個性…すなわち、行間をあけるかあけないか、絵文字の配分、感嘆符の有無、ネガティヴかポジティヴか、素っ気ないか丁寧か、といったあたりを感じ取るようにしているんですね。そうやって理解したテキスト個性は、後に実際に会って確かめても、はずれることはまずない。これは長年の経験の蓄積がありますから、けっこう確信を持って言えます。もちろん、自分の文章もできるだけ客観的に観察するようにしています。

リアルとテキストが揃って初めて、その人の個性が立体的に捉えられるのではないか、そして、これからの社会ではそうした立体的な相互理解が必要になってくるのではないかと感じています。

「人間大好き」とか「人が好き」とか言う人や企業が気持ち悪いです。そういう言葉を聞くのも嫌なのですが、「人が好き」という人や企業はこっちの都合なんかおかまいなしに、その手のキャッチフレーズや思想やらを撒き散らしておられますな。

思うに、彼らの言う「人」の中には、「人が好き」言説が嫌いな私も当然含まれているはずなのですが、「好き」と言いながら好きな相手のいやがる事を平然とやっておられる訳ですな。本当に好きなら相手の気持ちを慮っていただけるとありがたいのですが。

そういう人や企業を見かけると「ああ、無神経な人/企業なんだな」「鈍い人/企業なんだな」と思うようにしています。

(社説)障害者郵便悪用 どこまで広がる不正の根 – 山陽新聞ニュース

この障害者郵便悪用も、今になって急に増えた訳ではなく、昔から慣行的になんとなく認められていた事だったんじゃないかと想像します。「不正だ」と上から目線で批判するメディアに乗せられるのではなく、今、こうした事が急速に問題視されてきている理由を考えた方がいいのではないかと思います。

以下は根拠なく、ただ「そういう気がする」というだけの話ですが、個人であろうと組織であろうと、「説明責任」を徹底的に問われる世の中になってきているのではないか、と。「上から言われた」とか「なんとなくそう決まっているから」という理由だけで物事を進める事が、非常にリスキーになってきていると思うのです。きちんと説明できない人は叩かれる。色んなレベルで叩かれる。昔は認められた事が、認められなくなる。ルールが変わりつつあるように思うのです。

「私の使命はこうである、価値観はこうである」という基本を常に意識していて、それに従って行動する人でないと、これからは様々な方法で暴かれるんじゃないか。逆に言うとこれからは自分なりのミッションやバリューを持っている事で、様々な問題に対処できるヒントを掴めるんじゃないか。どんなパワーを持っているか、というのはあまり問題じゃないように思う。

こうしたミッションやバリューを有していない人や組織は、「あなたはなぜそれをやっているのか」「なぜその時、正しい事をしなかったのか」といった事を(事後的に)、今後徹底的に糾弾される可能性を考慮に入れて行動した方がいいのではないか、なんとなくそう思います。そうでない人や組織は、いったいどんなルールで物事が進んでいるのか、よく分からないままに翻弄されるんじゃないでしょうか。

【ゆうゆうLife】介護報酬UP 職員給与や利用料は?(上) (1/3ページ) – MSN産経ニュース

しかし、期待は外れた。「うちは、給与は上げません。皆さんのプラスになるよう職場環境の改善に使います」。施設長の言葉に、「それでは、意味がないじゃないか」と声が出かかった。

この介護報酬アップって、労働者の待遇を改善するために導入されたはずなんですが、誰でも想像できそうな展開になってきていますね。「事業所にお金渡したら、そのまま労働者に渡してくれるだろう」という、よく言えばお人好し、悪く言えばマヌケな思考回路で物事を決めている気がしてなりません。この件に限らず、政府は基本的な制度設計ができないんじゃないかと思います。

ある人が何かにとても真剣に取り組んでいたとします。その人をAさんとしましょう。Aさんは取り組んでいる対象をすごく気に入っており、あなたにも勧めてきます。それはとても意義のある事で、やりがいも感じられるようなすばらしい事なんですね。

「どうですか、○○さん。一緒にやりましょうよ」

あなたは内心複雑な感情を抱きながらこう答えます。
「いやぁ…ちょっと…」

するとAさんはさも驚いた顔をしてこう言うんです。
「なぜ?なぜやらないんですか?」

あなたはちょっと困った立場になっている自分に気づいてびっくりします。それをやらない強い理由が、本当に見あたらないからです!かといってそれをやるかと言われても特にやりたいとも思わない…うーむ困った。こういう事ってよくありますよね?セールス・トークとか、あるいは警察の職務質問なんかで「やましいところがないなら、所持品を調べてもいいはずでしょう」なんて言い方をされた事もあります私。

でもね、「それをやらない理由」は説明する必要がないし、「やましくない証明」もしなくていいと思うんです。だって世間には取り組み甲斐のある素晴らしいものごとが五万とあふれている訳ですよ。やらない理由を言い出したら、それらすべてについて同じように説明しなきゃいけないはずで、でもそれは不可能です。だから説明する必要はないはずなんですね。「なぜやらないの?」と聞かれたら「理由はないし、説明する必要もない」と答えましょう。うん。

「やましいところが…」の話もそうで「やましくない」事をやましくない人が説明しながら歩いて廻る義務はない訳ですよ。だから「やましくないけど、それを証明する必要もない。やましい事を証明するのはそっちだ」とでも言ってやればいいのです。

てな事をふと思ったりしました。