Rock' n' Roll is...

 ロックは死んだ。そう、ロックは死んだのだ。60年代の終わりから70年代前半にかけてのごく短い時期のみが、ロックが本来の意味でロックでありえた幸せな期間であり、70年代後半にかけては徐々にその力を失っていき、80年代前夜のパンクが完全に息の根を止めた、ぼくはそう思っている。それ以降の「ロック」ミュージックをすべて「ロックではない」と切り捨てるつもりなどないが、それ以降のすべての「ロック」に関わる人間は、何らかの形で「ロックは死んだ」という事実に対して、意識的でなければならないはずだ、とは思っている。

 少なくとも80年代にロックバンドを始めようというヤツは、ぜったいにその事に対して意識的でないといけなかったと思うし、The Red Hot Chili Peppers(以下このサイトでは基本的にRHCPと略す)もそうしたバンドのうちのひとつだったと思っている。別に80年代に限らず、今に至るまでロックが死んだことに気づいてない人間はけっこう多い。テレビで、いわゆるビジュアル系「ロック」バンドを目にするたびに思う、「お前ら、自分たちのやってることがわかってるのか」と。「死んだ」ことにも気づかず、魂の抜けたロックの抜け殻をいつまでも弄んでいるなんて悲しすぎるし、ロックに対する冒涜ですらあると思う。髪の毛を立て、黒いレザーの衣装を着て、ギターを低く持ち、歌謡曲を歌うことにいったい何の意味があるというのか。

 「ロックは死んだ」という前提に立ちながら、それでもロックというフォーマットで表現していかなければならないところに、ロックの難しさがある。形骸化してしまったロックのイメージ、アティテュードを無批判に取り入れるとき、彼らは簡単にロックミュージックの罠に陥ってしまう。そんな姿はもはやピエロでしかないのだが、その事にさえ気づいてないバンドは山ほどいるし、実のところ、ヒットチャートを賑わせている「ロック」バンドのほとんどは、そんなバンドだったりするのだ。意識的な人間にとって、ロックをやる、ということは本当に困難な闘いであったし、あり続けるわけだ。

 そのむつかしい闘いに、あえてRHCPは挑んだ。他とは違ったやり方で。そう、エイトビートの代わりにファンクのリズムをはじき出すことによって。黒っぽい衣装を着る代わりに裸になることで。上目遣いにカメラを睨む代わりに「ひょっとこ」のような変な顔を作ることで。

 死んでしまったロック。それでも輝いていた頃のロックを愛し、敬意を抱くからこそ、自分たちの手でロック本来のパワーを掴み取りたい、それこそがRHCPの一貫した「闘い」のテーマであったとぼくはとらえる。それがぼくにとってのストーリーであり、このサイトのすべては、そのストーリーに沿って描かれている。本来ファンサイトとしては、メンバーの紹介やヒストリー、最新のバンドの動向などを載せているのが普通だと思うのだが、「リンク」のコーナーで紹介している先輩ファンサイトのオーナーの皆さんがそういったことはすでにされているし、ぼくにそれ以上のものが書けるとも思えない。だから、申し訳ないがそういったことはすべて割愛させていただく。ここに書かれていることは、とりもなおさず、mine-D本人が、RHCPというバンドをフィルターにして語る、個人的なストーリーに他ならない。もう長い間彼らのファンをやってきたし、ここらで今まで考えてきたことを何らかの形で記しておきたい、そういう気がしてきたのだ。もうひとつには先に挙げた先輩ファンサイトのオーナーの皆さんの熱意に触発された、という部分もある。とにかくここはそんなサイトなんだ。


Encounter

 話は1987年にまで遡る。当時大学生だったぼくは、「宝島」という雑誌を毎月読んでいた。今発売されているそれとは違い、当時の「宝島」は、いわば「サブカルチャーマガジン」で、田舎者のぼくは毎月この雑誌でシコシコとサブカルの勉強に勤しんでいたのだった。87年の確か9月号だったと思うが、「LA特集」という企画が組まれていた。80年代に入ってからこれといったムーヴメントを何も起こせず、死んだと思われていた西海岸シーンが「今、熱い」といった内容だった。当時ブームの兆しを見せ始めていたスケートボードや、スーサイダル・テンデンシーズなどのハードコアテイストのバンドがいくつか紹介されていたのだが、そこでぼくは初めてRHCPの名前と姿に接することになる。ライヴのレポートが載っていたのだが、取材した編集者にもかなり衝撃的だったようで、けっこう大きなスペースがRHCPのために割かれていた。そのライヴの写真、体中に蛍光ペンキを塗りたくり、目をむいてマイクにかぶりつくアンソニー・キーディス(当時はもちろん名前なんて知らなかったけど)の姿は確かに衝撃的だったが、当時のぼくには洋楽ロックを聴くという習慣はなく、ましてどこの馬の骨とも分からないマイナーなバンド(もちろん当時は、だが)のレコードをわざわざ探し出して聴こうなどという気はさらさら起こらなかった。せいぜい、「ああ、こんなバンドもいるんだ。すごいな」と思った程度だった。

 翌1988年の2月、「卒業旅行」と称してぼくはサークルの友達二人とアメリカ旅行に出かけた。よくある親のすねかじり旅行だ(けっきょくその年「卒業」はできなかったのだが)。けっこう色んなところを回ったのだが、特に、一週間ほど滞在したニューヨークは刺激的だった。死ぬほど寒かったのを覚えている。せっかくだからライヴを見に行こうという話になり、情報誌をめくってみたのだが、ぼくらが滞在している間に名前を知っているバンドのライヴは催されていなかった、ひとつのバンドを除いては。そう、そこでぼくはふたたびThe Red Hot Chili Peppersという名前を耳にすることになるのだ。

 会場は「Ritz」というディスコだった。当時バンドの状況から見ると、前年に発表した「The Uplift Mofo Party Plan」のツアーだったのだと思う。後にドラッグで命を落とすことになるヒレル・スロヴァクがギターを弾いていた。おそらく日本人で生のヒレルを見た人はそんなに多くはないと思うのでけっこう貴重な体験だったのだが、もちろん当時は「ヒレルだ」と思ってみていたわけではない。

 なにしろ周りは頭ひとつは確実に大きいアメリカ人ばかり。マリファナをまいてるヤツはいるし、ぼくらはステージが始まる前からすっかり周りの雰囲気に飲まれていた。前座のバンドのステージが終わった頃にはすでに真夜中に近かった。バンドが出てきて演奏を始めたとたん、オーディエンスはどっとステージ前に押し寄せ、お互いが激しくぶつかり合い、他の客の頭の上にダイヴしたりしだした。いわゆるmoshだ。バンドの出す音も確かに激しかったのだが、こういった客の反応も含めたライヴ全体の雰囲気に、まるっきり圧倒されていた。そう、クールにライヴを評価するなどという気はこれっぽちも起こらず、ただただ目の前に起こることを口を開けて眺めている、といった状態だったのだ。

 だから、どんな曲をやっていたのか今でもよく思い出せない。本当の意味で彼らの音楽に出会ったのは、数日後に次の滞在地、ニューオリンズのレコードショップで「The Uplift Mofo Party Plan」のテープ(ヘッドフォンステレオですぐに聴けるから)を購入してから、と言えるかもしれない。まあ、このテープも友達が買ったのを貸してもらって聴いていたのだから、その時点ではまだファンになる気はあまりなかったと思うのだが、何度か聴くうちにすっかりバンドのサウンドが耳になじんでくるようになった。ギターの音はハードコアっぽいのだが、リズムが複雑で面白いし、その上にラップがのっていてごちゃ混ぜの感じ。うん、これは面白い。曲調も一辺倒ではなく、「Behind The Sun」のようなメロウな曲もあれば、「Love Trilogy」のように緻密な構成の曲もある。いずれにせよ、ただの脳味噌からっぽで威勢がいいだけのバンドじゃない、というのはすぐに分かったし、ジャケ写のメンバーの姿もすごくカッコいいと思った。音楽性、ファッション、カルチャーを含めすべてが新鮮に映った。気がつけば友達があきれるくらい何度も繰り返しテープを聴き続けていたのだった。


After

 日本に帰ってきてからぼくはRHCPのレコードを買い、それと平行する形で今まで聴いていなかったクラシックなロック―ビートルズ、レッド・ツェッペリン、ジミ・ヘンドリックスといった音楽を聴き始めた。周りには「すごいバンドがいる」とRHCPのことを吹聴して回ったのだが、総じて友達の反応は鈍かった。けっきょく留年してしまったぼくは、友達にもほとんど会わず、家にいるときも外出するときもひたすらロックだけを聴き続けた。「The Uplift Mofo Party Plan」は、ほとんど毎日聴いていたと思う。リリースされたばかりの「The Abey Road E.P.」もさっそく購入し、「Fire」のカッコよさにしびれた。

 その頃のある日、友達の部屋で創刊されて間もない「Cross Beat」誌をパラパラめくっていたとき、欄外ニュースの片隅に、小さく「ヒレル・スロヴァクがドラッグで死亡」という記事があるのを見つけた。バンドメンバー個人の情報というのはほとんど入ってきていない時期だったので、正直ヒレルにそれほど思い入れがあったわけではなかったのだが、「Uplift Mofo...」ですごくいいプレイをしているだけに、残念でなかった。それにヒレルの死が原因でドラムのジャック・アイアンズまで脱退してしまい、今後バンドが存続していけるのか、という心配もあった。いずれにせよ、偉大なギタリストの死亡記事にしてはものすごく小さな記事だったのだ、ものすごく。

 ヒレルの死を乗り越え、バンドは新メンバーを加え、89年夏には元気のいいアルバム「Mother's Milk(母乳)」をリリースした。この頃からRHCPのブートレグヴィデオが出回りはじめ、もちろんぼくは目に付いたものを片っ端から購入した。また、公式のクリップ集(確か「Positive Mental Octopus」というタイトルだったと思う)もリリースされ、彼らのライヴパフォーマンスの凄さにも魅せられた。

 90年の1月にはついに初来日公演が催された。この公演を待望していた人間を日本中からすべて集めて、「どれくらい心待ちにしていたか」の順で並べていったら、ぼくは10位以内くらいには確実に入る自信があった。何を自慢しているのか分からないが、ぼくにとっては、それくらい待ちに待ったコンサートだった、ということだ。ぼくの住んでいる関西では大阪・心斎橋の「ミューズ・ホール」という小さなライヴハウスだったが、過剰すぎる警備にもかかわらず(大阪の別のライヴハウスで死亡事故が起きたばかりだった)、ものすごくいい内容のライヴだった。

 91年には傑作「Blood Sugar Sex Magik」を発表し、翌92年5月には再来日公演も実現した。ぼくは肝心の大阪公演のチケットが取れなかったので、横浜、名古屋の公演を見に出かけ、ジョンが脱退を決めた例の京都公演(というより「長岡天神」公演だが)も会場まで出かけていった。

 結婚して子供もできてからは、今までのロックに浸りきった生活というのは送れなくなってきた。そのことが原因なのか、ぼくが結婚、子供、という環境の変化についていけなかったのが原因なのか、ぼくは一種のノイローゼのような症状に陥ってしまった。精神科に通い、薬を処方してもらったが、出社しても仕事にならない状態が続いた。以前にインドに行ったのをきっかけに仏教にはまってしまい、酒もタバコもやめ、毎日仏教書を読む、といった極端な生活を送っていた。オウム真理教の問題が表面化する少し前のことだ。今では当時の自分の考え方に対して冷静に見ることもできるのだが、当時はとにかく極端な考え方しかできず、ロックに対しても「ロックに依存している今の生活はダメだ」と思いこむようになり、引っ越したのを機に所有していたCD(300枚くらいあった)をすべて中古CDショップに売ってしまった。公式、ブートレグを含め色んなアーティストのヴィデオが揃っていたが(その時点で手に入るRHCPのブートは、おそらくすべて揃っていた)、それらもすべて雑誌にお知らせを載せて、希望する人に格安で売ってしまった。

 今考えると、なにもそこまでしなくても…と思う。ブートなんて、今では手に入らない、かなり貴重なものも多くあったようだし。人間なんて、そんなに強いものじゃない、しょせん何かに依存していないと生きていけない存在なんだ、ということも今では理解できる。だけど、その時のぼくは、何かにとりつかれたようにすべてのことを「ストレートに」処理しなければ気が済まなかったのだ。それでも、昔から好きだったアーティスト、バンドの動向は気になっていたし、アルバム「One Hot Minute」も購入した。このアルバムは、ぼくが、上記のような、かなり深刻な状況にある時にリリースされた。それだけに、このアルバムの「重さ」をことさら深刻に受けとめてしまったように思う。バンドは第一回のフジロックフェスティバルに出演したが、ぼくは見に行くことはおろか、WOWOWで放送された番組も見ることができなかった。子育てや仕事に追われて、ロックとはほど遠い生活を送っていたのだ。


Now

 99年になって、「Californication」がリリースされ、翌2000年初頭には久々の単独来日公演が実現した。東京では武道館3日間公演、大阪でも城ホールと、一気にメジャーバンドとしての現在の彼らを認識させる状況になった。当然大阪公演を見に行ったのだが、ミューズホールでやってた頃と比べると、正直「普通のバンドになったんだなあ」というのが感想だった。それがいいことなのか、悪いことなのかは分からない。きっといいことなんだろう。ぼくはWebでRHCPのファンサイトの存在を知り、掲示板等で徐々に関わりを持つようになった。近所にロックを扱っているCDレンタル店を見つけ、利用したりして、少しずつロックとの関わりを取り戻しつつある。昔売ってしまったRHCPのCDを買い直したりもしている。

 さて、ぼくは今、このサイトを立ち上げようとしている。このサイトははっきりいって、誰のためでもない、自分自身のためのサイトなんだという気がしている。アルバム「Californication」で、バンドはある種の「敗北宣言」を行った。これから彼らはどこに行こうとしているのだろうか、と考える。そして自分自身を振り返ると、仕事は全然ダメだし、家庭もいつ壊れてもおかしくないような状況だ。ぼく自身のストーリーは、いわば「破綻」してしまった。まさに「敗北」だ。これからどうしていいのか正直分からない。分からないまま、とにかくぼくはこのサイトをオープンする。ここから新しいストーリーが始まるかもしれない、という期待を少しだけ抱いて。

 この文章を締めるにあたって、2000年1月の来日公演のパンフレットに載せられていた、フリーの日本のファンへのメッセージ、「Message from FLEA for Japanese people」を、ファンの"しゃおりんさん"が日本語に訳された文章を紹介したい。これは、「赤い熱いチリコショウ達オンライン」(管理人:チリコショウさん)というファンサイトに掲載されているものを、ご厚意により転載させていただいた。フリー、ひいてはこのバンドの「魂」を感じ取れる、すばらしいメッセージなので、ぜひ読んでほしい。

親愛なる日本の人たちへ

君達が日出る処の息子達であり、素晴らしい伝統文化の娘達である
自分自身を、愛してほしいと俺は願っています。
時には、太平洋の全てのしずくを飲み込んだとしても、
自分達の魂の空洞を埋めることは出来ないと
君達は感じるかも知れないけども。
俺は君らの国を、作家達を、芸術家達を、
そして偉大なる戦士達を愛しています。

でも未だに、君らの住む街を歩く時に道端でションベンしたり、
君らの国の政治家を笑ったり、彼らが女性用の下着を身につけて
オモラシしたりする姿を俺は想像するだろうがね。
だけど、俺は君らの国を静かに、敬意をもって見守っています。
クロサワの事を思いながら。

君らは知っていますか?俺の一部は、すごく小心者で、自分で自分を
傷つける苦悩に満ちていて、自分勝手です。
だけど俺のもう一部は、喜びと、愛と、信頼と、信仰と、
何かを分け与える事で無限に満ちています。

そして、俺はそれらを全て、君達に持っていきます。
それらを俺の目に焼き付けます。
俺達は君らと、君らの全ての心と魂の為にプレイします。
俺達自身のためにも。
もし君らの小さな子供達に出会ったら、こう言おう。
「俺の耳の中にはアリの家族が住んでて、
そいつらが、毎日何をするべきか教えてくれる。
だから、そいつらに、
『俺は火星から来て、本当は犬なんだぜ』
って言ってやるよ。」
俺達は心から君達の元へやって来ます。

LOVE FLEA

 原文を読んだのだが、ぼくの英語力不足もあり、もうひとつニュアンスがつかめなかった。訳されたしゃおりんさんが、フリーやRHCPのことを深く理解されているからこそ、これだけすばらしい文章になったのだと思う。これを読んで、ぼくは深く「癒された」と感じたし、今までファンをやってきたことが少しも間違っていなかったんだ、と改めて認識することができた。今、このバンドのファンをやってきてよかったと心から思います。どうかこのサイトを楽しんでいって下さい。