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mine-D:どうもどうも。早いものでこの対談も5回目になりますな。
今回は「宗教」を取り上げてみたいと。95年に明るみになったオウム真理教(当時)の 一連の犯罪はおそろしくショッキングな出来事としてぼくらの心に食い込んだワケだけれども、その事はもちろん、さらに身近な問題として…つまりぼくらが日々暮らしていく中での、宗教の持つ意味、「なぜ心が宗教に向かうのか」「宗教はぼくらに必要なのか、いらないのか」という辺りを話し合ってみたいと思うんだよね。
先日ぼくのサイト(mine-D's Fanatic World)で宗教団体・アレフの現役会員へのインタヴュー(「ムッタ・デーヴァ氏インタヴュー」)をやっている事もあって、あっちの企画とお互い補完し合うような内容にできればいいな、と考えていますが。
Silverboy:
いやいや、またよろしく。宗教ね、微妙なテーマではあるんだけどね。
まず、ごくごく基本的なところから始めたいんだけどさ、mine-Dは「神」を信じる?
mine-D:なるほど。そう来たか。
おれアメリカの、いわゆる「大衆小説」が好きでよく読むんだけど、「殺人課刑事」(アーサー・ヘイリー著)って本を前に読んだんだよね。その本の主人公は刑事なんだけど、もともと牧師で、神学の学位も取っているという変わり種だという設定なんだけどさ、その主人公の言葉にこんなのがあったんだよ。「いや。本物の信仰はバイブルの上に築かれるものじゃないからな。それはわれわれの周囲のあらゆることが偶然に起きたものではなく、神の御業であるという直感から生まれる。もっともその神はバイブルに描かれた神ではないかもしれないが」。
この「われわれの周囲のあらゆることが偶然に起きたものではなく」って下りにすごくシンパシーを覚えて。それは今まで経験してきた事の積み重ねによる「実感」として持っているんだけど、この世界には何か不思議な力が作用しているんだな、というのはすごく思う。ただ、それを「神の御業」と呼ぶのは違和感があるし、あくまでキリスト教圏の世界観だよね。あるいは仏教徒なら「縁起の法則」と呼ぶかもしれないけど…。
だからまあ、答えとしては半分YES 、半分NOかな。Silverboyは信じる?
Silverboy:
イスラムなら「アラーの思し召し」なのかもな。小沢健二が曲の中で「神様を信じる強さを僕に」とか「神様はいると思った」とか言うんだけど、僕はそれが分かる気がする訳。僕は神は信じるけど宗教は信じないし別に要らない。
ここで神というのは、要は世界というか万物を統べる存在としての神だよね。そこにあるものをそこにあらしめている存在の源泉というか。
mine-D:
うん、この世界を「カオス」ではなく、「秩序」として律している意志というか。こういうプリミティヴな感覚はいわゆる「無神論者」を含めて、多くの人が持っているものなんじゃないかと思うんだよ。ただ、そういったレベルから、具体的な宗教…すなわち実際に崇め奉る対象として「神」を信仰する行為までの距離はかなり遠いと思うんだけど、両者の間のボーダーラインってのはどこで区切れるんだろう?どこからが「宗教」なのかな?
Silverboy:
何かいきなり本質に入ってるな…。
う〜ん、僕の中ではそういう自然の摂理というか万物の法則というか、あるいはそもそも宇宙が存在していることの「意味」と言ってもいいかもしれないけど、それが自体が「神」であり「神の意志」なんだよね。で、人はそれにきちんとした名前とか実体を与えたくなるもんだからそれが「宗教」に発展して行くんだろうな。いや、「宗教」に退化して行くと言うべきかな。だってそういう意味での「神」には名前もなければ何か恣意的な「御利益」がある訳でもないはずなんだよ、本来は。
だから、まあ、試論ではあるけど、「宗教」の成り立ちはそういう「神」の存在を自分たちの理解できる言葉に置き換えて名前をつけようという営みから成立する、というのはどうかな。
mine-D:
なるほどね。そういう限定された意味合いにおいては、「神が人間を造った」のではなく、「人間が神を創った」という言い方が当たってる気がする。
ただまあ、絶望的な状況におかれた時…死の淵に立たされた時、人間はやっぱり弱いものだから「神様」か「南無阿弥陀仏」か分からないけど、自然とそういう言葉が口をついてでちゃう気がする。おれは絶対言うと思うし(笑)。だから、「不完全」な存在である人間が「神」の存在にすがってしまうのは自然な事なんじゃないかとも思うね。
Silverboy:
オレは…、言うかな、「ああ、神様」とかって(笑)。
だからやっぱり神様がそういう無色透明な存在だと面白くないっていうかさ、もうちょっと具体的で分かりやすいものを求めちゃうんだろうね。ていうか、そうでないと「救い」にならないからさ。だって宇宙の法則が神で、それは個々人の現世利益には関係ない、って言っちゃったら、哲学的には面白いかもしれないけど、まあ、困ってるときの「足し」にはならないもんな。
mine-D:
そう。その「現世利益」なんだよね、問題は。具体的で分かりやすくって、優しくて、全能で、困った私を救ってくれる…そういう神を設定した限定的な意味での「宗教」が取り沙汰される事が多いよね、特に最近。
現代日本に限ってみても、例のアレとか、アレとか、色々あるよね。その辺をちょっと突っついてみるか。
Silverboy:
そうだね。
例えば多くの宗教ではカネを上納することが信心の証しみたいになってると思うんだけど、それってどうなのかな。神様は本当にお布施や寄付の多さで救ってくれたりくれなかったりするのかな。
mine-D:
よくあるよね、そういうの。そもそも寄付や布施が多いヤツほどちゃんと救ってやるという考え自体、すごく「人間くさい」ワケでね。それは「神」の意志ではなく、「誰か」の意志なんでしょーが、という指摘は今さら触れるまでもない事かもしれない。
ただ、信仰というのも、そもそも個人的な体験なワケだし、一概にいい悪いを言えない、という面はあると思うけど。周りから見ればものすごくいかがわしいような「神」に、何百万もつぎ込んだとしてもさ、それで本人が救われるんなら幸せな事かもしれないし、全然もったいなくないのかもしれないけどね。
Silverboy:
むむ。確かに重要なのはそういう個別の苦しみに対応した「救い」なんだな、きっと。一般論では具体的な苦しみには対応できないってこった。
mine-D:
そうそう、どんな宗教にせよ、あくまで「個人的」な体験なんだよ、きっと。
ところで、今日本で見られる宗教は、古来からの神道、仏教や、戦後興ったいわゆる「新興宗教」も含めて、ほとんどすべてが現世利益を満たすために存在している…という面があると思うんだよね。この現世利益ってのはなにもお金持ちになるとか社会的に高い地位を得たいという物欲的なものだけではなくて、「安寧に暮らしたい」とか「自分や家族の身に不幸が起こってほしくない」といった控えめなものも含めて。
橋本治は「宗教なんか怖くない!」って本の中で、宗教というものを「個人の内面に語りかける宗教」と「社会を維持するための宗教」のふたつに分けているんだけど、今のほとんどの「宗教」は後者だと思うんだよね。それを信じていれば「幸せになれます」「問題が起こりません」という志向性が今の宗教の実態だとすれば、それはかなり曖昧なものだという気がするし、それこそ「加藤諦三」とか「相田みつを」なんかまでその範疇に入ってしまいそうな気もするけどな…。
Silverboy:
たださ、そういう宗教に乗っかってる人って、「待てよ、神様が寄付の金額の大小で救うかどうかを決めるなんてのは何かおかしくないか」とかって思ったりしないのかな。まあ、そういうバランスというか普通の考えができないからこそ怪しげなヤツにもだまされたりするんだろうけどさ、その辺が不思議で仕方ない訳だよ。
mine-D:
ああ、そうか。そういう「常識的な判断」ができなくなって、財産をなげうってしまうところが「宗教」と単なる「人生訓を垂れる人」の違いかもしれない。そういう意味で言えば「自己啓発セミナー」なんかは割と宗教くさいよね。「ライフスペース」だっけ、「ミイラ事件」の。あそこももともとは自己啓発セミナーだったよね。
端から見ればどう考えても「おかしいだろ」と指摘できるような簡単な「異常さ」に、本人だけが気づいてない…こういう心理ってのは…どうなんだろうねぇ。最近よく言われる「カルト」や、「マインドコントロール」の側面から見ていった方がいいか。
Silverboy:
それがさ、例えば身内に重病人がいて、状態が好転する見込みもなくて、カネも心細くて、看護にも疲れて、みたいなときに新興宗教に引っかかるというのはまだ分かる訳よ。そういう「心が弱ってる」状態の時に何か甘いヴィジョンを見せてくれるものに「ハマる」というのはね。
だけど、オウムにしたってセミナーにしたって、みんなそこまでまだドン詰まってないように思えるんだな。そこでいきなり「救い」かよ、みたいな…。
mine-D:
なるほどな。ちょっとややこしい言い方なんだけど、戦後からの、ある程度の歴史があって、すでに市民権を得ている新興宗教の場合は、今Silverboyが言ったような、不幸のどん底で「せっぱつまった」状況にある人に対する明確な「救い」を提示しているように思うんだよね。
だけど、オウムに象徴されるようなタイプの宗教に行く人ってさ、その点ぜーんぜん「せっぱつまっては」いないワケじゃない。経済的にもそうだし、身の回りに不幸なことばかりが起こったから入信した…ってワケでもない。
「じゃ、なぜ恵まれた境遇の人が宗教に走るのか」っていうと、なんというか「魂の飢え渇き」があるからじゃないかと思うんだよね。これは自分の体験からもそうなんだけど。
Silverboy:
うんうん。そういう意味では即物的な切羽詰まり方よりももっとどうしようもない切羽詰まり方をしているってことなのかもな。例えばカネがないとか不治の病に苦しむ身内がいるなんていう情況は目に見えて悲惨だけど、「魂の飢え渇き」は外から分からないだけにね。
mine-D:
そうなんだよ。まあ、考えてみれば社会全体が物質的には満たされて、余裕があるからこそ、そういう悩みも出てくるワケだよね。アフガン難民みたいに、「明日生きてるかどうか分からない」状況に置かれたヤツは「魂の飢え渇き」なんて悠長なことは考えたりしないし。
それにしてもアレだね。Silverboyは絶対に宗教になんか走らないタイプだよね(笑)。その辺の「おれに宗教がいらない理由」ってのを、自分ではどう分析する?
Silverboy:
どうなんだろ、僕も弱ったら宗教すがっちゃうかもしれないけど。
大学に入りたてで、まだ友達もいなくて、一人暮らしですごく心細かった頃、気安く声をかけてくる怪しげなサークルや政治団体の下部組織なんかにフラフラついて行きたい誘惑はあったよね。でもそのときに思ったのは「いかんいかん、こんなものについていったら『負け』やぞ」ということだったと思う。自分の弱さをそういう外部的なもので安易に埋め合わせしても解決にはならないという認識が先にあったってことかな。
mine-D:
なるほどね。大学入ったり、就職したり…っていう、18,9くらいの年齢ってさ、圧倒的な孤独感にさらされる時期だよね、やっぱり。うちの大学にも原理研とか、色々いたなぁ。
ま、おれが入ってたような軽音サークルだって、「青年期の孤独感を埋め合わせる」っていう目的で言や、その手の宗教団体と変わらない気もするけどね。けっきょく、建前的に「同じ目的を持った」同士の集団の中で、己の孤独感を紛らわせてただけって気が、今になってみるとするんだよね。いや、実際現在まで続いてるような友達関係を築けた相手はいたけどさ、サークル活動の、集団としての機能を考えてみた場合、「寂しさに耐えかねて宗教に走っちゃう」若者の心理と、特に変わったところはないと思えるくらいだよ。
Silverboy:
うんうん、確かに僕も今となっては会社というガチガチの組織で毎日否応なく人と接して忙しく立ち働いてる訳で、それがある種の「埋め合わせ」になってる部分もある。サークルとか、会社とか、あるいは他にも社会的に認知された、例えばボランティアみたいなものもあるけど、何かによりどころを求めて生きるという意味では、そういったものと宗教の境目はそれほど自明じゃないかもしれないね。たまたま入り込んだところが宗教だった、ってこともあり得る訳で。ただそれが社会的に前向きに認知された集団か、ただのカルトかというだけの違いみたいな…。
mine-D:
そうだよね。その「受け皿」になる機能ってのは、必ずしも宗教ばかりとは限らないって気がする。ところで今「カルト」って言葉が出てきたんだけど、この規定もけっこう曖昧で、状況によって変わってきたり、時と共にカルト→社会的に認知された宗教という流れを辿る場合もあるよね。
例えば今の創価学会なんてのは政党(公明党)が与党として国政を担ってるワケだし、どう考えても社会的に認知されているとしか言えないんだけど、もともとは「危険思想」だとして国家から弾圧された歴史がある。あるいは仏教にしても釈迦が存命中から教団に対する排斥運動があったし、キリストにしたってさ、平穏な社会生活を営んでる人をどんどん連れて行っちゃうワケだよね。マジメな漁師の前にある日いきなり現れて、「人間をとる漁師にしてあげよう」とかワケの分からない事を言って、家庭やらすべてのものを捨てさせてしまうワケだよ。そう考えるとすべての宗教が、その成り立ちにおいては「危険思想」に相違なかったんじゃないかって気もするんだけど。その辺はどう考える?
Silverboy:
いや、僕は固有名詞にはコメントしないけども…(笑)。
本来宗教というのは日常生活とか現世利益というものとは相容れない側面を持つものだと思うんだよね。だから生まれて間もない「新宗教」、「新興宗教」が純粋な宗教的熱情に動かされて活発に動き回っている状態は、既存の秩序からすれば常に「危険思想」だと映る可能性はあるんじゃないかな。それは、今は完全に俗化して定着しているキリスト教も、仏教もね。
そうやって始まった、純粋で、求道的で、ある意味ラジカルな「新宗教」が、次第に一般性を獲得する過程でどんどん薄まって「分かりやすく」なり、マイルドになって、それとともに社会的認知に至ると、そういうことなんだろうと思う訳ですわ。
だから、島田先生も言ってるけど、オウムがどんどん我々の日常感覚から逸脱していった過程というのは、求道者集団としての宗教の本質からすればむしろ自然だったと。「宗教がなぜテロに?」的な物言いというのは、現世利益を分かりやすく提供する俗化した宗教しか頭にない人、つまり宗教というのは日常の友だという考えをオートマチックに持っている人の言いぐさだという訳。それは僕としてはかなり納得できる説明だったな。
mine-D:
うーん、そうなんだ。オウムによる一連の事件がなぜ起こったのか…。その原因を追及するのはすごく大変だし、難しいことだとも思うんだけど、少なくともあの集団が本質的に宗教の枠からは外れてなかった、むしろある意味においては他のどんな現存宗教団体より宗教を「極めていた」って事は基本的に理解されていなければいけないと思うんだよね、それがいいか悪いかは別として。単なる「宗教の名を借りた金集めテロ集団」ではなく、極めて「宗教だったから」こそ事件を起こした、という見方ね。そういう点で、俗化した宗教に慣れ親しみ過ぎた人達(もちろんおれ自身も、かなりの部分が含まれると思うんだけど)にとってはショックだし、宗教に対する意識の変容を迫られる事態になってきているとも言えるね。
だから、島田裕己氏が示しているような視点というのは重要だと思うし、彼のやってることは意義のあることじゃないかと思うんだよね。まあ、世間一般的には、まだまだ「旧態依然」の宗教観でしか対象を見られない人がいっぱいいる…というより、そっちの方が圧倒的多数なんだけどね。
Silverboy:
やはり宗教というのは本来的に俗世からの解脱というか悟りというか、別のステージを目指すもののはずなんだよね。原始キリスト教もたぶんそうだったんだと思う。ただ、大衆のニーズはそこにはなくて、むしろ一種の逃げ場とかシェルターを求めてるのかもしれない。
mine-D:
そういう側面は強いだろうね。あくまで「現世」の範囲での逃げ場を求めてるんだろう。
ところでカルトといえばオウム事件ですっかり定着した「マインド・コントロール」なんだけど、どうも、なんでもかんでも十把一絡げに「マインド・コントロール」で片づけてしまってるような印象しか受けないんだけど、どうなんだろうね、その辺は。
Silverboy:
ははは。宗教ってのは本来もっと自発的というか、内発的なもののはずだと思うんだけどね。
「マインド・コントロール」という言い方は、コントロールされた側の主体的責任をすごく曖昧にしてしまうような気はするね。マインド・コントロールってもとは共産中国が捕虜にした資本主義国の人間に毛沢東思想を注入したメソッドでしょ。「洗脳」ってヤツ。自己啓発セミナーとか、ある種の新興宗教とか、何か、みんな、コントロールされたがってる、手っ取り早く答えを知りたがってるとか、そういう感じなのかな。
mine-D:
洗脳のもっと洗練されたヤツがマインド・コントロールだったのかな、確か。でもさ、「マインド・コントロール」の手法ひとつで、何ら殺意のない無垢な人間を凶悪犯罪に走らせる事ができるなら(つまり意のままに操る事ができるなら)、それこそ世界各国の軍隊や、あるいは広告業界の人間とかさ、それこそ真剣にマインド・コントロールのメカニズムを研究するはずだし、実際にその手法を取り入れてるはずだよ、とっくに。まあ、Silverboyが指摘しているように、世の中には「コントロールされたがってる」人種もいっぱいいるワケでもあるんだけど…少なくともオウム事件の裁判なんかを見てる限りでは、「○○被告は、教祖により強度のマインド・コントロールの影響下にあった」なんて言い方がまかり通っちゃってるワケじゃない。でも実際には個々人の特性という面も大きいだろうと思うし、そんな簡単に汎用的に画一的にコントロールできちゃうようなもんでもねぇだろ?って気はするんだよね。
いずれにせよ「マインド・コントロール」という実体のよく分からない言葉で物事を片づけようとするのは、物事の本質を追求しようとする観点から見ると、まったくもって害悪意外の何物でもないよ。思考停止だよ。
Silverboy:
まさに。人の心というのは、たぶん、ある意味ではそんなに簡単に「コントロール」できちゃったりするようなものじゃないと思うんだけど、同時にとても「コントロール」されやすいものでもあると。オウム裁判での「マインド・コントロール」の使われ方は、結局自分の責任を逃れるための方便と変わりないのかもしれないし、そういう言葉の使い方は、本来その言葉が持つべき意味合いを殺してしまうよね、確かに。
mine-D:
その「マインド・コントロール」の話に関係してくるかもしれないんだけど、例えば今、烏山のマンションにアレフ会員が居住している事から、世田谷区全体が総力を挙げて彼らを排除しようとしているよね。でね、「住民代表」の人達は「中で何か危険な事をやっているに違いない」と主張しているんだけど、それに対してアレフ側が「道場」を公開するって言ったらしいんだ。だけど、けっきょく「住民代表」の人達は一人も中の様子を見にやってこかなった、と。
今言ったようなエピソードから見えるのは、ごくごく一般的な日本人の心の中に巣くう、「宗教アレルギー」とでも呼ぶべきものじゃないかと思うんだよね。住民の人達は「殺人教団」「許せない」と侮蔑してはいるけど、その実「宗教というワケの分からないもの」をやってる人達に対する…なんというか、「畏怖」の感情を持っているように感じるんだよね。あるいは、「うっかり中に入ってマインド・コントロールされちゃったら…」という心理もあるのかもしれないけど。いずれにせよ、なんか日本人全体に、今言ったような「宗教アレルギー」が蔓延していると思うんだ。
ま、おれ個人としてはいつまでも「無宗教」教にしがみついてる場合じゃないだろって気持ちは強いんだけどね。これだけ宗教の問題が表出しているのに…。Silverboyは、その辺をどう見る?
Silverboy:
ドイツだとさ、役所に届ける書類に、住所、氏名、何とかってある中にさ、「宗教」って欄があったりするんだよ。で、日本人は結構そこに「なし」って書いちゃう訳。ところがそれって欧米人の感覚ではすごくアナーキーなことらしいんだよ。要はヤツは神なんか信じてない、筋金入りの無神論者で唯物主義者だと。
我々が無宗教だ、というのはそうじゃなくて、特にこれといって特定の宗教を信じてる訳じゃないというだけのことなんだよね。積極的に神の存在を否定してるというほど強いものでもないんだよ。だって葬式も結婚式も宗教に則ってやる訳だからさ、超越的な存在に対するなにがしかの畏怖の念というのはあるんだろうね、やっぱり。
mine-D:
…そうか。そうだよな。確かにどんな日本人でも「超越的な存在に対する畏怖の念」というのは持ってるよな。曖昧な存在ではあるけど、この世界を司っているであろう、なんらかの超越的存在は信じてるワケだ。それをまったく信じないとなると不安で、だから冠婚葬祭の時なんかはちゃっかりそういう存在に頼ったりするワケだね。
そういう宗教的ないい加減さというか曖昧さは、確かに欧米人…具体的に言うとキリスト教圏、イスラム教圏の人達からすると理解不可能なんだろうけど、逆に考えると健全な気もするわな。だって日本じゃ宗教紛争なんて絶対起こり得ないでしょ。
ただ、戦後日本では殊更宗教の問題に関して真剣な議論が行われてこなかったというか、もう「ないもの」として扱ってきたワケだよね?そのツケが、オウムみたいな形で一気に表面化してきているって面はあると思うんだよね。これってさ…やっぱり戦時中の国家神道のせいなのかな?
Silverboy:
国家神道ねえ…。どうも具体的なイメージが持てないな。あれも「宗教」じゃないって気がするよね。政治と宗教と自然崇拝が一緒になってるみたいなもんかなあ。少なくとも戦前の人はあれを「天皇を頂点とする宗教」だとは思ってなかったと思う。もっと「自然」とか「現象」とかに近い、「自分たちの意志とは無関係に、ア・プリオリにそこに在るもの」だったはずじゃないかな。
本来宗教というのは厳しい自己認識がなくては始まらないものだと思うんだよね。そういう意味で我々の宗教観というのは、何というかすごく「無自覚」って感じがするな。
mine-D:
うーん…そうだね、日本ってもともと自然崇拝をずーっとやってきただけって感じもするもんね。もちろん概論的にだけど、本当の意味での「宗教体験」ってのは…なかったのかもしれないね。
ところで日本における「個人宗教」ってのはどう思う?これに関しては「神軍平等兵」奥崎謙三氏が有名だけど、最近では神戸連続児童殺傷事件の少年なんかも…伝えられてる事が事実であると仮定しての話だけど、「バモイドオキ神」という自分一人の神を作り上げて信仰していたワケだよね。その他にも…ごめん、ちょっとソースが手元にないんだけどワケの分からない宗教にはまった家族が身内を餓死させるっていう事件があったよね?こういう「パーソナル」な宗教がボコボコ姿を現している事の意味って、なんなのかな?
Silverboy:
そういえば昔そんな話をメールでして、僕が「島宇宙」ってコラムを書いたことあったよな。ちょっと引用していい?
「結局のところ、みんな口々に自分のことをしゃべっているだけで、人の言うことなど聞いてやしないのではないか、恐ろしく限定された世界にそれぞれが進んで自閉しているのではないか、僕にはそんな気がしてなりません。言い換えればみんなまるで『自分教』とでもいったような、たった一人の宗教にハマりこんでいるのではないかと僕は思うのです。賑わっているように見えるワールドワイド・ウェブの世界も、所詮はほとんどがそんな『自分教』の教祖ばかりで、信者なんて初めからどこにもいないのかもしれないと僕は思い始めています」
これはインターネットが賑わっているように見えて実際にはとても閉じた世界なんじゃないかということを感じて書いたんだけど。結局みんな自分のことしか興味がないんじゃないかということなんだけど、ミニ宗教なんかもそんな感じしない?
mine-D:
自分教。そうなんだ。これだけコミュニケーションの手段が発達しているのにも関わらず、ぼくらがものすごく孤独で、自閉的な世界に閉じこもってしまっているのは事実なんだよね。ネットはまさにその写し鏡であり、それを加速させている存在なのだとも言える。都市で生活していく者にとって、そうした孤独は本来的に、不可避的について回るものなのかもしれないけどね。いずれにせよ、社会が成熟していく(もはや衰退なのかもしれないけど)につれて、そうした自分教的な考えはますます強くなっていくだろうね、今以上に。
Silverboy:
そうだよな、都市生活は孤独なんだけど、それは人間の本来的な孤独を都市生活が際立たせてるってだけのことだと思うんだよ。だからそこで僕たちが対峙しているものというのは、本当は田舎に住んでても対峙すべきもののはずなんだよね。都会では自分を守ってくれているものがはぎ取られてその事実が露わになってるだけなんだと思うんだよな。
煎じ詰めればすべての宗教は「自分教」なのかもしれない、というのは極論としても、自分が本当に興味があるのは自分のことだけだ、と認めてしまうのは一つの行き方だと思わない?
mine-D:
うん。思うな。おれなんかサイトやりだしてから特にそう感じるようになってきたけど、ものすごくエゴイスティックだし、自分の事しか興味ないんだよね。それはもう呆れるくらい(笑)。でも、煎じ詰めれば誰でもそうだと思うし、きれい事なんて言ってる場合じゃなくてさ、はっきりとそう認めるべきだと思うよ。で、さらに突き詰めていけば…これは唯識論みたいな話になっちゃうんだけど、この世界自体が、おれがおれの五感を通じて認識しているからこそ成り立っているワケで、つまりは世界=自分なんだよね。だからおれが死ぬ時がおれにとっての「世界の終わり」なんだ。「マイ・ハルマゲドン」ね。
まあそれはそれとして、今Silverboyが言ったような「自分にしか興味がない」という空気はこれからますます加速していくだろうという予感があるんだけど、旧来の様々な概念や幻想を放棄して、けっきょくは「自分だけだ」「孤独なんだ」と認めてしまう事は、けっきょく「自分と向き合う」事だよね。これは間違いなくタフな事だと思うし、辛い事だとも思うんだよね。それを乗り切るための方法、手段を、みんな自分で考えていかなきゃいけなくなるんじゃないだろうか。そういう事は誰も教えてくれないしね。
Silverboy:
そうなんだな。で、結局そうやって自分と厳しく向かい合うこともなしに他者となんか向かい合える訳もないと思うね。まあ、そういうことがきちんと行われてる社会には宗教は要らないのかもしれないけど。
西欧の世界というのはその点「個」の領域を自覚的に意識する合理的な社会なんだけど、彼らの場合は人間存在に不可避な非論理的な側面を「神の問題」として宗教、つまりキリスト教に委ねてるからこそ認識レベルでの合理性が貫徹できるんだよね。原罪とかさ、合理性を貫徹することで説明のつかない都合の悪い問題は全部宗教の担当分野になっちゃう訳だよ。だから、西欧から近代合理主義や市民主義だけを輸入しても根づかないのは当たり前なのかもな。
mine-D:
ははぁ。なるほどね。非合理的な部分を全部宗教に押しつけちゃってるワケか。そういう割り切りがあるから、すごく合理的でいられるんだろうね。なんか「ブラックボックス」というかな、そういうイメージのシステムだよな。
でも考えようによってはそれって思考停止だとも言えるよね。「なぜ私は存在するのか」という問いに対して簡単に「神が創造されたから」で済ませちゃえば楽でいいんだろうけど、「そんなに簡単に割り切っちゃえるもんか?」って気はするよね。欧米の、ある種の人達におれが感じたりする気持ち悪さって、そういう所から来てるのかもしれないな。ブッシュとかね。
Silverboy:
そうだよな、それってまったくの思考停止だよな。それが彼らのある種の独善性の根源でもあるのかもしれない。宗教が違うとそこの部分って共有できなかったりするから。だから西欧の考え方って合理的に見えてすごく強く宗教に規定されてんのな。あの現実レベルでの合理性はキリスト教とワンセットな訳よ。
それに比べると我々の宗教観ってすごく「透明」だって気がするね。
mine-D:
それは「裏がない」って意味で、かな。要するに西欧社会の場合、表面的な合理性の裏にはよく分からないブラックボックス的な宗教観が隠れているけど、我々日本人にはそういうのはない、と。
「おれは無宗教だから」で済ませているいる無自覚なヤツは別として、かなり真剣に自分に向き合おうとする人にとっては、逆に日本みたいな「非合理的」で曖昧さを含んだ宗教的バックグラウンドは…ある意味幸せなのかもしれないね。ま、アイロニックな言い方だけど。
Silverboy:
日本だとどんな宗教でも自由に選べる、でしょ。西欧ではたぶん宗教というテーマを立てた途端、それはキリスト教について考えるということでしかあり得ない訳だよね。イスラムの国でもそう。ドイツでイスラム教を信仰しようとすると、「ドイツにいるのにキリスト教を信仰しない自分」にまず向き合う必要がある訳。でも日本では仏教や神道もそういう自覚的な、避けて通ることのできないモメントとしては機能してないよね。ヨーロッパにおけるキリスト教の意味合いとイランにおけるイスラム教の意味合いにはたぶん通じるものがあると思うけど、それは日本における仏教や神道の意味合いとは決定的に違う。それを僕はなんとなく「透明」だな、と思うんだよな。
mine-D:
なるほどなぁ…。それだけあっちでは…ヨーロッパでも中東でも…バインドがキツいというか、そういう感じはあるんだろうね。例えば日本でウヨクの人が「天皇を崇拝しろ!」といくら街宣カーで喚き立てたところで、逆になんか滑稽さというか哀れさというか、そういうものが漂っちゃうもんね。そういう、不文律のような圧力はないよね。少なくとも今は。
それに第2次大戦中の神道教育にしたって、あくまで人工的なものというか、自然に発生したものじゃないよね。あくまで「教育」だし。その点、逆にあっちの方が「異常な」世界じゃねぇかな?って気はするよね。
Silverboy:
そうなんだよな、繰り返しになるけど日本人にとって寺とか神社って本来宗教というより習俗、素朴な自然神崇拝に近いと思う。僕はそれは悪いことではないと思うし、日本人はそういう独特の宗教的寛容さみたいなものをもっと自覚的に理解しなければならないし、それは別に恥ずかしいものでも卑下すべきものでもないんじゃないかな。
あと、ありがちな新興宗教はともかくとしても、何かを信じる、自分を超越した絶対的な存在を措定するということ自体は僕は否定しないし、それがまさに「救い」として機能するならその存在価値そのものは理解できるな。
mine-D:
そうだよね。「無宗教」だからって恥じる必要はないよね、きっと。世界的に見れば極めて特異な宗教感覚を有している国民なんだけど、それは逆に考えれば健全な事かもしれないってのは、今まで話してきたとおり。
それから今Silverboyが言った「何かを信じる、自分を超越した絶対的な存在を措定する」って事に関係あるかもしれないけど、世界中のどんな宗教にせよ必ず共通する要素があるとおれは思っているんだけど、それは何かと言うと「おのれを低くする」って姿勢ね。それは「偉大なる神」への崇拝の気持ちから来る場合もあれば、本来「我」というものなど存在しないのだ、と悟る事から来る場合もあると思うんだけど、いずれも同じなんだよね、「身の程を知る」って事に関しちゃ。突き詰めて考えれば社会に出て、色んな事にぶつかって揉まれたりする経験から学べる事であるかもしれない。
ま、いずれにせよ、そういう「分をわきまえる」って姿勢は大事だと思うし、おれ自身も自分の宗教体験を通じて得られた事の中で、そうした部分はいちばん重要だったんじゃないか。そう思ってるんだよね。
Silverboy:
まあ、僕だってすべてを超越した視点、を信じている時点でそれは僕だけの「神」な訳だしね。だから小沢健二が「神様はいると思った」と言い切った瞬間には「そりゃやっぱそうだろ」と思うと同時に「バカはこれ聞いて騒ぐんだろうな」とも思ったね。
いや、例によって結論は出ないと言うか初めから出てると言うか、そういう対談だったけど、重かったね(笑)、今回は。
mine-D:
まあね。結論は初めから出ていたし、結論なんか出ないとも言える。確かにそういう感じはあるよね。それに重くならざるを得ないテーマな事は確かだ(笑)。
まあ「宗教」という広大なテーマを据えた事もあって、その一部分にしか触れられなかったって部分もあるし、この辺は読者の方々からのレスポンスも期待したいところですな。でも、なかなか面白かった。今回はおれの方がずいぶん悩んじゃって、考え込んでばかりだったんだけどね(笑)。
Silverboy:
いいんだよ、黙ってるときはコーヒー飲んでるから。ま、僕は宗教というもの、特に既存の新興宗教みたいなものにはもともと極めて冷笑的な人間だと思うんだけど、何かを信じるという心持ち自体は肯定したい訳で。
mine-D:
なるほどね。そこの所がポイントってワケだね。とかく我々は「信じる対象」の方を云々しがちだと思うんだけど、重要なのは「信じる行為」の方なんじゃないの?みたいな、さ。
いやいや、どうもお疲れでした。また次回の対談の日取りを決めないといけないね。
Silverboy:
こちらこそ、お疲れ様。今度はどういうネタでやるかな。また考えとくわ。じゃ、今日はこの辺で。どうもありがとう。
mine-D:
こちらこそ。どうもありがとう。またねー。
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